Life,Work,Money

45才からの生活、仕事、お金のことついて、とりあえず書いてみる。

どんなことでもベンチを温める側ではなく、プレーする側に回りたいと思った

ぼくは小学生の頃、地元のリトルリーグで野球をしていた。

大の野球好きの父親の影響や、周りの友達の影響で、野球を好きになることが当たり前の環境だったため、「少年野球」をやることは自然の成り行きだった。

でも、3月生まれのぼくは、4月生まれ「優位差」に勝てるほどの体力的素質は持ち合わせていなかった

※(スポーツにおいて、早く生まれた選手は、同じ年齢の仲間たちよりもはるかに有利なスタートを切ってもいる。それは与えられて当然なわけでも、みずから勝ち取ったわけでもない「好機」だ)

 

そして、毎週日曜日になると、球拾いと走り込みばかりの練習で、朝早くから夕方までを過ごすことは苦痛以外のなにものでもなかった。でも、親に言い出すこともできず、ひたすら耐えた。ぼくが、少年野球で身につけたことといえば、基礎体力と忍耐力だとおもう。

結局、三年ほど続けて中学生になると同時に野球に見切りをつけた。

いまでも覚えているのだが、卒業する最後の試合のときに、監督はぼくに対して「レギュラーでもないのに毎週休まず練習にきて、頑張ったことは素晴らしい」というようなことを言ってくれた。

ぼくはそのとき、どんなことでもベンチを温める側ではなく、プレーする側に回りたいと思ったものだ。

少年野球に限らず、誰もが子供のころに、このように何かしらにおいて、自分の無力さを感じる体験をしているとおもう。それらの経験は、大人になり、さまざまなことで折り合いをつけていかなければならないとき、少しばかりは役に立つのだろう。

今日も、ボブ・グリーンからの引用になるが、彼の短編集に収められた「野球そして人生の真実」は、そんな人生の残酷な一面を教えてくれる名作だとおもう。

アメリカン・ビート―ベスト・コラム34

アメリカン・ビート―ベスト・コラム34

 

この話の主役は、九歳になるブレットとその両親。

ブレッドは、8歳のときからリトル・リーグで野球をやりたくて仕方がなかった。そして、9歳になり、両親の許可がおり、チームに入る。

しばらく経ち、ブレッドの様子がおかしいことに気がつく。両親はある日、試合を観に行って、気がつく。そうブレッドが出ていないことに。

チームは十五名で、そのうちの何人かはかなりうまかった。ほかの選手たちもほとんどがブレットより体が大きく、頑丈だ。試合にははとんどそうした選手たちが出ていた。コーチは一イニングだけブレットを使ったが、そのイニングが終わるとすぐに引っこめてしまった。

試合のあと家に帰ってきたブレットに、両親はどうしてふさいでいるのかきいた。ブレットがいうには、シーズンの初め、コーチは全員が試合に出られるといっていたのに、彼にとってはそれが最小限でしかないのだ。一試合に一イニングだけなのだ。コーチにしてみればブレットをあまり長く出して、試合に負けることになるのが恐い。おまけに彼の守るのはライト、ライトといえば昔から草野球ではへたな選手の守るところに決まっている。

 

 

それからというもの、母親は試合がある日はかならず球場まで足をはこぶようになった。そして、ある日、コーチになぜ自分の息子を試合に出してくれないのかを聞いた。

 

「ベスト・メンバーで試合をやらざるをえないんです」コーチはいった。「リーグに加盟しているわけですからね。勝つためにやってるんです。いまチームには一イニングだけしかプレイできない子供が五人いて、おたくのお子さんはそのうちのひとりなんです」

その後も、ブレッドは練習を重ね、試合のある日には、だれよりも早くグラウンドに出かける習慣は続いた。

でも、その年のシーズンが終わろうとするころには、ブレットは、だれよりも早くグランドに向かうことはなくなり、家でも野球の話をまったくしなくなっていた。

ブレットの両親は、この経験のなかに教訓を見いだそうとしていた。

毎年夏になると、アメリカ中の何千という町のたくさんの少年たちが同じようなことを経験する。息子にはいい経験になるだろう。息子は、人生や夢についてなにかを学びとるにちがいない。夢を信じすぎることが、どんなに危険なことかも思い知るだろう。

両親は自分にはそう言いきかせつづけるだろうが、そんなふうにはまったく考えていないはずだ。ふたりが考えるのは、自分たちの息子はほんの九歳にして自分はたいした人間ではないとい うことを見せつけられた、ということだけだ。

だれもがいつかは、そのことを思い知るのだが、ある者は人よりも早く知る。ある晩、ブレットは両親に、来年の夏は野球をやらないよ、とぼそっといった。その目は夏がはじまる前のように輝いていなかった。それが両親にとっては、いちばんつらかった。ブレットの目は、もう前のように輝いていなかった。

 

デリバリーピザを食べた記憶が長くのこるのはなぜか?

昨日に引き続き、ボブ・グリーンの名作コラムをご紹介しよう。 

チーズバーガーズ〈1〉 (文春文庫)

チーズバーガーズ〈1〉 (文春文庫)

 

今日は、この本から「反グルメ論」というお話。

ピザの目がないボブ・グリーンが、ある日 、「世界一のピザ」を食べてみないか友人たちに誘われ、シカゴから車で一時間ちょっとかかるピザハウスまででかける。

「ご注文をどうぞ。なんのピザにします?」
「ペパローニにチーズをダブルで」
「うちはペパローニはやってません」

私は唖然としてその場に立ちつくした。これは冗談ではない。「世界一のピザ」を出すという店が、ペパローニはメニューにない、といっているのである。

そこで、ボブグリーンは心の中で自らが作ったルールを破ったことに対して、自戒する。

「断じて食べ物のために旅をしてはならない」

われわれ反グル メ人間は食べ物になんの魔力も感じない。人間と食べ物の関係は車とガソリンの関係だ と思っている。空になれば、最寄りのスタンドへ行って、補給する。そしてまた空にな るまで走りつづけ、空になったら、ふたたび都合のいいスタンドへ行って満タンにする。一時間十分もかけてある特定のガソリン・スタンドまで出かけていくようなことは断じてない。

このボブの価値観は、ぼくはとてもよくわかる。

もちろんぼくも人並みに美味しいものは好きだが、食べ物のためにわざわざ1時間離れたところに出かけたり、行列にならぶほどのグルメではない。なにかの用事で行った先で、その周辺にある飲食店のなかから、そのとき食べたたいものを扱う店に入るだけだ。

ただ、年を重ねるたびに感ずることがある。それは、だれが言ったか定かではないが「食事は何を食べたかではなく、だれと食べたかが重要だ」という言葉が、そのとおりだなと思えるようになってきたことだ。

たとえば、ぼくの場合、デリバリーピザをオーダーするときは必ず誰かと一緒で、楽しい記憶であることが多い。それはきっと仲のよい誰かと集まったときにデリバリーピザを食べる機会が多いからだとおもう。

ピザのトッピングや、ピザの味はあまり覚えていないが、ピザを誰と食べてどんなシチュエーションで、とても楽しかったなあというのはかなり細かく覚えているのである。

というわけで、あまりグルメでないぼくには、やっぱり食事は「何を食べるかより、誰とたべるか?」ということが結構大事なような気がします。

ちなみに、ぼくがいまま食べた中で一番美味しかったピザは、妻と初めて海外旅行へいったとき、やっとみつけたハイウェイのピザ屋でテイクアウトしたペパロニピザです。

これがそのときに写真。 

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「あるバスの運転手 」の話は、あなたの周りにも必ずいる

浪人生のころ、蓄のう症の根本手術をするために1ヶ月ほど入院したことがある。そのとき、退屈しのぎに手にした遠藤周作氏のエッセイ集に出会って、エッセイやコラムの虜になった。

それ以来、エッセイやコラムと名のつくものは、手当たり次第に読んだきた。

最初は、日本人の作家のものばかり読んでいたが、いつしか海外の作品にまで手を伸ばし始めていた。映画や音楽においては完全に洋物かぶれしていたぼくは、エッセイやコラムにおいても海外のもののほうが数倍おもしろく思えた。

特に、アメリカ人ジャーナリスト、コラムニストであるボブ・グリーンの作品には、すっかり夢中になって、ほぼ全作品を集めた記憶がある。

ボブ・グリーン氏とは?

ボブ・グリーン - Wikipedia

1947310日生まれ、現在71歳。アメリカでは、とにかく新聞社のコラム欄の専属ライターになることは、とてつもないステイタスのようなのだが、ボブはなんと大学卒業後たった2年でシカゴサンタイムズのコラム欄を担当するようになり、のちに24年間も大手新聞会社シカゴ・トリビューンでコラムニストを務める。

ところが、2002年に、かつて仕事で知り合った高校生と婚外交渉をもったことが明るみにでたことで、シカゴ・トリビューンを辞職する。

最後は、残念な幕引きであったが、過去の作品におけるボブの数々の名作コラムはぼくの脳裏に染み付いており、いまだに日々の光景の中で蘇ってくる。

そんなボブの名コラムは日本でもいくつかの出版社によって翻訳され、いまやブックオフ100円コーナーの棚にたくさんならんでいますが、どれも数ページの傑作コラムが収録されているので、出張や旅行のお供に絶賛おすすめをします。

今日はたくさんある傑作の中から、「あるバスの運転手 」という話を紹介しようとおもいます。 

アメリカン・ビート―ベスト・コラム34

アメリカン・ビート―ベスト・コラム34

 

 

ときどき思わぬときに、思わぬことが起こって、朝焼けに出会ったときのように胸を打たれることがある。数日、バスでとうもろこしと大豆畑がつづく田舎を旅していた。個人的な旅で、探し求めていたものをすでに見つけ出し、シカゴにもどる途中だった。

この話は、アメリカの長距離バスの運転手の話である。

ぼくもアメリカにいたときに、何度か試みようとしたが、危険な話と辛い話しか聞かなかったので、一度も乗ることはなかった。

ただ、漏れ聞こえてくる評判は、この話に書かれている通りだった。

料金が安いこと、それだけが人々がバスに乗る理由なのだ。いまこのバスに乗っている乗客は、アメリカの旅行者としては最下層の社会階層に属する。どうしても行かなくてはならないが、懐ろ具合と相談して乗れるのがバスだけだというわけだ。

そんな背景があるので、長距離バスにのる乗客の質というのもあまりよくない。だから、そのようなバスの運転手も、誇りをもっているとは言い難いのではないか?と考えてしまう。

でも、この話に登場するバスの運転手(三十代前半の若者)は、違ったのだ。彼の仕事ぶりはこう書かれている。

走っているときに乗客が近づいてなにかきいても、けっして迷惑そうにはしない。それどころか、愛想よく、親切にきかれたことに答えている。

バスに乗り込んでくる客を気持よく迎え、降りる客のいるときは、バスを停めると急いで自分も降りていって荷物を下ろすのを手伝った。

停まるたびに運行日誌をつけるために乗客の数をきびきびと数えた。彼は乗客の顔をひとりひとり覚えているのではないだろうか。

乗客にとってはこの秋のどんよりとした日にたまたまこのバスに乗り合わせたにすぎないが、彼にとっては私たちは彼の乗客で、運転手はそのことに個人的な関心をもとうとしているように見えた。

彼はアメリカのど真中の忘れられた路線を走る長距離バスの運転手にすぎない。だが、そのマナーからすれば、これがパリ行のボーイング747であってもちっともおかしくなかった。

そう、彼は自分の仕事に「誇り」をもって取り組んでいたのだ。

さらに不思議だったのは、運転手がみずからの仕事に誇りをもっているために、その小さな誇りが徐々に乗客にも浸透していったことだ。

乗客のほうだって自分が乗り心地の悪いバスに、どう頑張ってもほかの乗物には乗ることのできない人間といっしょに乗っているということはよくわかっている。にもかかわらず、運転手が誇りをもっていてくれるおかげで、乗客のほうも少しはいい気分でいることができたのだ。

ようやくのことでシカゴの中心街のバス停についたとき、運転手は降車口のステップの下に立って、乗客全員が降りるのに手を貸し、全員にありがとうございました、と声をかけた。全員が降りるまで、彼はそこに立っていた。

この話の運転手のような人はみなさんの周りにいないだろうか?

ぼくの周りには、この運転手のように、世間一般的に評価される仕事ではないが、誇りをもつて毎日仕事に向かいあっている人が何人いる。朝から全身をつかってジェスチャーしながら都バスの誘導をしているおじさん。彼は常に身体を動かし、だれもに挨拶している。また、会社のトイレ清掃を笑顔でしているおばちゃん。真冬でも汗だくになり、トイレをぴっかぴっかにしてくれている。みんな、自分のしごとを手抜きすることなく、全力で笑顔で取り組んでいるように見える。

そういう姿をみると、とても気持ちがよい。誇りをもって仕事をするということは、こうして、他人に伝播していくものなんだとおもう。

 

バス停では、大きな空港で見るようなドラマはまるでない。そこに降りたったときの気持は冒険のはじまる前に味わうゾクゾクするような思いにはほど遠い。相変らず単調で退屈な人生がつづいているか、というあきらめにも似た思いだ。

にもかかわらず、彼の態度、仕事に対する姿勢が、何時間かのあいだ状況をちがったものにしていた。

家に帰りついたとき、とんでもないことをしてしまったことに気づいた。それほどその 運転手に感銘を受けたにもかかわらず、名前さえきかなかったのだ。トレイルウェイに電話 をかけるとすぐにわかった。彼の名前は、テッド・リットという。 

ドリルを売るには穴を売れ。ハンバーガーを売るにはおもちゃを売れ?

今日のお昼は家族でマクドナルドだった。

娘はハッピーセット、母親は普通のハンバーガーにマックチキンナゲットにホットコーヒー。ぼくはチーズバーガーを二つに、妻と娘のナゲットとポテトをつまむ。

月に二回ぐらい、こんな感じで週末マクドナルドをしているのですが、なぜそんな頻度で訪れるのかといえば、子供がマクドナルへ行くことを望むからです。

なぜ、子供がマクドナルドに行きたがるのかといえば、「ハッピーセットのおもちゃ」が目的なのです。しかも、「おもちゃがほしい!」と言えば親に「ダメ!」と断られるのですが、「昼食のおまけ」となると、そのハードルがなぜか下がるのです。

このように、子どもたちにとってマクドナルドの「ハッピーセット」は、昼食を食べに来たという大義名分のもとに、おもちゃゲットでくる好機会にほかならないのです。

しかも、「ハッピーセット」のおもちゃはたいていは5種類ぐらいのバリエーションがあるために、それら全てを集めようとすると、リピート来店せざる得ない仕掛けが施されている。

「0歳〜8歳ぐらい?」までのセグメントにおいて、マクドナルドは彼らが何を欲しているか見抜いていて、そこにドンピシャな流行りのキャラによる、おもちゃを仕掛けてくる。

子供が隔週で、「マクドナルドにいきたい~」と口にするたびに、このマクドナルドの「優れたマーケティング」(顧客が本当に求めている価値を提供している)に感心せざるえない。

ドリルを売るには穴を売れ

ドリルを売るには穴を売れ

 

マーケティングといえば、最近、この本を読んだ。

 

あなたが工具のドリルを売っているとする。

あなたにとっての売り物はドリルだが、顧客にとっては、ドリル自体ではなくドリルが開ける「穴」に価値があるのだ。この「穴」がベネフィットということになる。顧客は「ドリル」を買っているわけではなく、「穴を開ける道具」を買っているのであり、あなたはドリルではなく「穴を開ける道具」を売っている。

これは、買い手にとっては当たり前のことだが、ほとんどの人は売り手になった瞬間に忘れてしまう。マーケティングに特殊な理論は存在しない。あなたが買い手であるときにはすべて知っていることであり、その当たり前のことを体系化したのが「マーケティング」なのだ。

我々は、平日仕事をするときは、「売る側」、そして週末に買い物をしたり、サービスを享受するときは「買う側」になり、だれでも両方の立場を経験しているのだから、だれもがマーケットが何をもとめているか?など手に取るようにわかるのでは?とおもうが、そう簡単にはいかない。著者がいうように、ほとんどの人は売り手になった瞬間に忘れてしまうのである。

それはなぜだろうか?著者の答えはこうだ。

マーケティングとは私達が毎日のように体験し、自然に感じている当たり前のことばかりだ。しかし、自然にできるということと、それを体系的に知っている、説明できることは全く別である。自分の経験や実戦だけでは不十分なのだ。体系的に整理する理論がなければ、知識は断片化されたままで、全体を理解することができない。

というわけで、マクドナルドのような素晴らしい好事例を体感しても、自分の仕事で生かせないのは、理論で理解していないからなのですね。

この本はとてもわかり易く、小難しいマーケティング理論の本を挫折してきたぼくでも読めそうです。

お金によって幸せになっているか?と聞かれたら、助かっているというのが正直な答えです

今朝、通勤電車内で、こんな本の広告が目に入ってきた。 

成功している人は、なぜ神社に行くのか?

成功している人は、なぜ神社に行くのか?

 

このタイトルを目にしたとき、瞬間的に「成功しているひと=お金持ちで、それなりに地位と名声を手に入れた人」をイメージした。

しかし、本来「成功」とは人それぞれ定義が異なるし、だれもがお金持ちで、有名になって、権力を手に入れたいだなんておもっていないはずだ。

でも、これだけ思考も価値観も多様化してきたとはいえ、まだまだ「成功している人」と聞けば、お金持ち・有名になること、地位を手に入れることと答えるひとからこそ、出版社もこういうタイトルの本を出すのだとおもう。

一般のひとは、「お金」があれば幸せになれるとおもってるし、使い切れないほどもったこともないので、「お金で幸せは買えない」というようなことを言ってみたところで、到底信じることはできない。

ここはやっぱり、お金を稼ぎまくって使いまくった結果、どう感じるのかを、お金持ちに聞いてみたい、、、、。

そうだ、先日読んだこの本の中で、サイバーエージェントの藤田社長がこんな回答をしてくれてます。

小休止のすすめ (SB新書)

小休止のすすめ (SB新書)

 

お金によって幸せになっているか?と聞かれたら、助かっているというのが正直な答えです。実現したいことを叶えていく上で、お金はさまざまな問題を解決してくれます。

しかし、人生における幸せになる瞬間や幸せな気持ちそのものを買うことはできません。どれだけお金があっても、楽しい時間をともに過ごせる人がいなければ、幸せは遠のいていきます。

特に休みについては、1時間で100万円かかる遊びでも、1日たっぷり楽しんで無料の遊びでも、金額に関係なく時間を有意義に過ごすことが大切です。

そして、その有意義な時間を一緒に過ごせる人がいるかどうかが、お金のあるなしよりも人の幸せを左右するのだと思います。

 

この言い方が絶妙ですね。「お金があって、助かっている」と。そして、「お金」の有無ではなく、有意義な時間を一緒にすごせる「人」がいるかいないかのほうが大切だと。

この話を聞いて、ジョージールーニー主演の映画のワンシーンを思い出しました。

仕事で年間322日も出張するライアン(ジョージ・クルーニー)はひたすらマイレージを貯め、「バックパックに入らない荷物はいっさい背負わない」というポリシーを持つやり手の独身ビジネスマン。

そんなライアンが妹のジュリーの結婚式に駆けつけるシーンで、マリッジブルーになり逃げ出したくなっているフィアンセに対してこう言う。

If you think about it,  your favorite memories,
the most important moments in your life... were you alone?  
Life's better with company.  

君の人生の中で一番大切な瞬間を思い出してみて。  
独りだったことってあるかい? 必ず周りに誰かがいたはず。 

劇中で、このセリフを聞いたとき、瞬時にぼくも過去を振りかえった記憶があります。すると、たしかに、思い出してくる大切な瞬間には、かならず誰かが一緒にいることに気づいたんです。

ほんと、これはみなさん、ぜひやってみてください。

 

 ↓2:09あたりでそのセリフが出てくる!


「マイレージ、マイライフ」予告編

自分たちの正しさは関係ない。問題は目の前に腹を立てているお客さんがいるということだ。

最近、毎日16時ごろになると無性にコーヒーが飲みたくなる習慣がついてしまった。

半年ほど前までは毎日保温ボトルに自宅からコーヒーもっていってたのだが、一日中ちびちび飲んでいると歯が茶色くなることに気づいて、その習慣をやめた。

それ以来、コーヒーが飲みたくなったら、会社の前にあるファミマでブレンドS(100円)を買って、さくっと飲むようにしている。

今日も、いつものように16時ごろにファミマに行ったのだが、そこで60歳ぐらいのおじさんが店員にクレームをつけているシーンに出くわした。

内容的には、床が濡れていて、転びそうになった!危ないじゃないか!というような内容だった。雨も降っていたし、そりゃあ店内の床も濡れるし・・・・仕方ないのでは?とおもったが、、、。とにかく、お客様は怒りが収まらないようで、若い女性店員を前に顔を真っ赤にして怒鳴り散らしていた。

その後、ぼくが店を出るころには、対応交代した店長らしき男性社員が、言い訳一つせず、ひたすら謝っていた。その姿をみて、「正しい対応しているな」と思った。

ぼくはコールセンター、コンタクトセンターをいくつも立ち上げ、マネジメントしてきたので、当然のことながら人一倍クレーム対応を相当数こなしてきた。その経験にもとづくと、こういう場合は、とにかくクレームをつけてきている人の「気持ち」を解決するしかないのだ。

クレームをつけたいお客様はとにかく、自分のこの気持ちを聞いてもらいたい。だからこそ、なによりまずその気持を受け止めなくてはいけない。つまり、お客様の話を傾聴し、そして、「聞いてますよ!」というレスポンスをしなくてはいけない。

「はい」「おっしゃるとおりです」「そうですね」などなど。

だから、このタイミングでもっともやってはいけないのは「黙ってしまう」ことだ。ただし、新人オペレーターの場合は、突然のクレームに対してフリーズしてしまう場合も多々発生するの、その場合は速やかに上司が対応交代をすべきだ。

このようにクレーム対応はマーケティング活動と同じで、いま対象となる人がなにをもとめているのか?の本質を感度良くつかみとることが求められる。

昨日読んだヒロミさんの本に、クレーム対応の基本姿勢が書いてあったのだが、これがすばらしい模範解答だったので、ここでご紹介しよう。きっとヒロミさんがずっと芸能界ひとすじでいたなら、この気づきはなかったようにおもえる。

これに気づくことができたのは、「小休止」したからこそではないかな。

小休止のすすめ (SB新書)

小休止のすすめ (SB新書)

 

トラブルが生じたとき、ダメなときはスパッと謝る。

何よりも大切なのは、時間。嫌な気分のまま立ち止まっているのはもったいない。それが責任を取る立場にいる人間の役割だと思う。

ジムを経営しいる間、本当にさまざまなトラブルが起きた。明らかにこちらのスタッフに落ち度がある場合もあれば、難癖に近いクレームもある。

問題は自分たちが「正しいか、正しくないか」、「悪いか、悪くないか」ではない。目の前に腹を立てているお客さんがいるということだ。

まずは、腹を立てさせてしまったことについて責任を取る立場にいる人間が謝る。

「小休止のすすめ」を読んで。

 

小休止のすすめ (SB新書)

小休止のすすめ (SB新書)

 

昨夜ブログで取り上げたこの本を早速ダウンロードし、今日の往復通勤電車内で読了した。

ヒロミさんとCA(サイバーエージェント)の藤田社長?なんとも違和感のある組み合わせ。最初はこの本だけの企画かとおもったら、実はかねてからの釣り友達だったとのこと。

そんな藤田社長が、本書の結びとしてこう書いています。

小休止について書くヒロミさんのパートを読み通し、改めて感じたのは「休みながらじゃないと長距離は走れない」ということでした。

 

起業から約 20 年。私もそれなりに長い距離を走ってきました。もちろん、経営は長期戦ですから、まだまだ道半ば。ですが長い時間軸で考えると、この 20 年は、目標の達成に向かいながらも気をそらす時間、目をそらす場が必要でした。 

 

「ここだ!」というタイミングで最大限の集中力を発揮するため、エネルギーを貯めていく。現場から少しだけ距離を取り、客観的に状況を見極める。そんなふうに小休止を役立てていると、遊びに没頭する時間の中で新たなアイデアが湧くこともあります。

タイトルにある「小休止」は一般的には「なにもしないでちょっと休む」という意味だとおもいますが、本書でいう「小休止」とは、いったん毎日の仕事から離れて、別の世界に身を置いてみることだと理解できます。

例えばヒロミさんの場合だと、芸能界から身を引き、トレーニングジムの経営をはじめたとき「小休止を取って別の世界に身を置くと、まったく違う風景が見えてきた」と書かれていました。

 

10 年という長すぎるかもしれない小休止を挟んで、考え方はがらりと変わった。

40歳を過ぎると、多くのひとは自分の価値観に合わないものに対して、否定的な態度や意見をするひとが増えてきます。とくに会社組織でいうと、上の役職になればなるほど。

でも、本書を読んでいると、40過ぎて芸能界を一旦やめて、トレーニングジムの経営を始めたヒロミさんは、いろいろな体験を経ながら、物事を俯瞰的にみて、全体最適になることを最優先する考え方にかわる。

(10年の小休止をして)まず、「司会者はゴールを決めなくてもいい」「おもしろくなくてもいい」と思うようになった。チームメイトのため、守備に徹して、ドリブル突破よりも味方を生かすパス出しに徹する。「ここでボールを出せば、あいつがおいしくなる!」というタイミングを見極める。そんな振る舞いが今は楽しいと感じている。

なぜなら、今のバラエティの番組は「チーム戦」であり「団体芸」であるからだ。ジムを経営してみて、一般の社会、僕の場合で言えば、店での仕事は基本的に「団体芸」だと知った。たった1人のエースがいても、うまくいく期間は短い。市場や環境に変化が生じたとき、対応して変わっていけるのは、エースに頼るチームよりも、団体芸を理解しているチーム。

だから自分が復帰後、大事にしているのは、ゲストに来た人が「あの人、おもしろいですね」と言ってもらえるようないじり方。それは司会のときも、一出演者のときも変わらない。自分が評価されるよりも、誰かの「今まで気づかなかったけど、あんな一面もあるんですね」を引き出せると、団体芸の一員として仕事をしたと感じる。

 

いつも100%である必要はない。

会社組織には様々な価値観の人がいるので、この考え方はとても大切。どうしてもみんな自分の労働価値観を基準にして考えてしまい、それにそぐわないひとを否定したくなる。そんなとき、このヒロミさんの考え方をあえてリマインドしてみるべきだ。

 

ジムの経営を通じて、よくわかった。いつも100%である必要はない。通常運行はマックス 80%で。経営者やリーダーも、スタッフがそこまでの力を出してくれるように関わっていけばいい。 「100%出せ!」「なんで出さない!」と腹を立て、周囲の人を自分のモノサシで測ってしまうと、無駄に心が揺れることになる。

自分自身も小休止を経て 80%を心がけるようにしてみたら、うまくいくようになった。それはたぶん、扱いやすいヒロミになったからだと思う。200%で突っ走ると成果は出ても、周りの人を置き去りにしていくことがある。

 

チームのバランスを意識する

本書を読んでいて、いちばん印象に残った箇所がここだ。自然と組織の関連性をわかりやすく見事に紐づけて書いてくれている。これは会社組織で、チーム力の難しさを感じている中間管理職の人々は100%同意してくれるだろう。

 

レーニングジムの経営は、3人からスタートして、多いときにはスタッフが 30 人を越えていたこともある。入れ替わりは頻繁で、会社に入って3年くらいして完全に戦力として認めた頃に、みんなそれぞれに自分の考えを持ちはじめる。パーソナルトレーニングを売りにしている以上、気に入ったお客さんがトレーナーを引き抜いたり独立させることもあった。

 

そんな経験を繰り返すうち、チームにはすば抜けてすごいヤツがいてもあまり意味がないと思うようになった。ほどほどのヤツがいっぱいいた方が、現場はうまく回る。一人のエースに頼った状態になると、周りが育たない。エースを支えるその他大勢となってしまい、チームのバランスが偏ってくる。

 

これは自然の中を歩いているときも感じる。山にはたくさんの木が生えているが、立派な巨木があるとその周りには林が育たない。生い茂った葉が光を遮り、他の木に必要な栄養を巨木が持っていってしまうのだ、林を育てたいのなら、大きな木を切らなくてはいけない。その方が林は育つ。

 

それは小休止後、自分がテレビの仕事をする上でも心がけている。今はどの番組に呼ばれても、自分が年長者であることが多い。だからなるべく出しゃばらず、他の出演者が生きるような出方を大事にしている。若い子のチャンスを取ってまでテレビに出たいとは思わない。節度を持って振る舞うことで、次の若手が自信を持つようになってチームの一員に加わり、番組がおもしろくなればバラエティ界が盛り上がる。それは出演者の一人として、最終的に自分のプラスにもなってくる。

 

力の抜きどころを見極める

自分も40歳なり、胃腸を壊し、無理がきかなくなったとき、力を抜いていく必要があることを悟りました。「力を抜く」というのは、自分のペースを見つけ、最適なパワーの配分を考えていくことだと思う。

復帰しはじめの頃は、デビュー当時でも経験したことがない緊張を感じていた。そこで役立ったのが、長い小休止の間にやっていたトライアスロンの経験だった。 

スイムでは海を前にして、1000人以上が一斉に飛び込む。水泳が得意ではない自分は毎回、「ゆっくり自分のペースで」と思うのだが、身体をぶつけ合いながら進むスタート直後の激しさの中でオーバーペースになっている。そんなとき、いつもしていたのが落ち着くためのルーティン。1回泳ぐのをやめて小休止する。

海面に浮いて、大きく息を吸い、自分に「泳げる、大丈夫だ」と言い聞かせ、周囲には「どうぞお先に行ってください」と考える。人は人、自分は自分のペースで。そう思えると、ウソのように楽しく泳げるようになった。

変わったことと言えば、小休止の時間を経て力の抜きどころが見極められるようになったことだろう。実際、戻ってきてから旧知のスタッフや先輩から「最近、力抜けていいよね」と言ってもらえる。ブランクがあったおかげで、「8割の力加減で、周りを生かすとうまくいく」と気づけたのだ。

 

例えば、ナインティナインの岡村は、休みの日に僕のところに来るといまだに必ず「おもろいことないですかね? おもろいこと」と言っている。

息の長い活躍をしている芸人さんはおもろいことではなく、「楽しいこと」を探している。「楽しいな、これ」「楽しいことないかな」というスタンスで物事に向き合っている。「おもろいこと」を探すのではなく「楽しいこと」を見つける。ここに8割の力加減のコツがあるように思う。

 

取り替えにくい歯車になる

組織やチームの絵を書くと、普通ピラミッド型を描く。でも、実態の組織は「歯車」のサークルのようだ。それは、どんな業種、どんな形態の組織でも同じだ思っていたのだが、芸能界も同じなんだなあと。

小休止後、テレビの仕事に戻って、確実に仕事観が変わった。呼んでくれて、使ってくれるのなら、その場でみんなの役に立ちたい。後輩たちの後押しをしたい。謙虚すぎて嫌味っぽく取る人もいるかもしれないけど、今はそんなふうに思っている。イメージしているのは機械の奥の方にある、小さな、でも取り替えの利かない歯車になりたい。

そう思うようになったのも、ジムを経営した経験が大きい。会社というのは、無数の小さな歯車が噛み合って動いている。社長も歯車の1つだし、新入社員も歯車の1つになる。全員が同じ方向を向いて、8割の力を出せば大きな結果を生み出すことができる。一人、二人が200%でがんばっても、他の歯車が別の方向を向いて回っていたら結果は出ない。だから人を雇い、店を運営していく経験の中で、周りにいい影響を与える歯車になってくれるスタッフにはとても助けられた。飛び抜けて優秀なトレーナーというわけでもなく、特別なスキルのあるスタッフというわけでもない。でも、その人がいると店の空気が良くなり、スタッフ同士の連携も高まるという人。経営者からすると、そういう人こそがむしろ、かけがえない存在で取り替えの利かない人になる。

 

自分がゲストで出演しているときも、「あれ、あの子、喋ってないな」と思うと気になって、自分が話を振られた流れで「ねえねえ、どう思う?」と話しかける。若手の子だったらこれがチャンスになるし、誰でもひと言、ふた言コメントすると、一仕事できたと気持ちが落ち着く。そうすると、歯車がいい感じで回り始める。そんなふうに、番組をいい空気感にしようという思いを持って、バランスを取っていく。  最近はそんなことを考えながら、仕事をしている。